2009年02月19日

偽装立国「ニッポン」(その1)

中川昭一氏が、ローマで行われたG7財務相・中央銀行総裁会議の後に行われた記者会見の振る舞いがもとで辞任に追い込まれた。 これまでの中川氏の行状と実際放映された映像を見る限り「正犯(主犯):アルコール」、「幇助犯(従犯)若しくは無罪:薬剤」と思えるが、政府側はあくまで「薬剤の誤用(飲み過ぎ)」で押し切るらしい。 共同通信の電子版「中川氏自らワイン注文」との記事があるにも係わらず、財務省国際局長の玉木氏は「会見直前まで大臣(中川氏)は正常だった」と衆議院の委員会で答弁してる。 しかも、体調が悪いにもかかわらず、会見後、中川氏はバチカン市内を2時間かけて観光したという(呆)。 どうみても「偽装答弁」ではないのか?

このブログのサブタイトルにあるように、「酒と薬とマタタビ人生」の私には今回の件で「中川氏が酔っていた」それ自体についての非難をすることは差し控えますが・・・。 (^_^;


しかし、いったい何時から日本は「偽装立国」になったのだろうか? 奇しくも(?)、今日、愛媛県伊予市のウナギ加工会社「サンライズフーズ」が行ったウナギの産地偽装で『加工会社社長ら5人逮捕(読売)』された。

少なくとも、私自身がこの国に「偽装」が蔓延(はびこ)ってると感じたのは学業を終えて社会に出てからだ。 とはいえ、現在と比べればカワイイ嘘であり、「嘘も方便」「ある程度の嘘は社会の必要悪」とも私が思っていたのも事実だ。 小さな嘘、隠し事無しには世の中廻っていかない。 実際、普通に暮らしていても、正直に真実だけをあからさまに示されたら、心に傷を負わない人などいないだろうし、また、心の安寧もないだろう。

ところが、ここ10年くらいをみると、ただただ「必要悪」とは言っていられない偽装が蔓延ってるのが実情だ。 


話が逸れるように思われるかもしれないが・・・、

昨日、18日に判決が出た「江東区の女性殺害事件」に下された星島被告への判決。 読売新聞の電子版『でも残虐極まりないとまでは…』の記事の判決要旨と、星島被告への「無期懲役」の判決を素直に受け入れられる国民は幾人いるだろう。 各マスコミも「何故死刑ではないのか」という論調と解説だ。 今回の星島被告への裁判では、検察側は傍聴席に座る人々にまで観える「モニター」を使い被告の残忍性を見せ付けた(読売)。 画像を観て気分が悪くなり席を立った傍聴人までいたという。

多くの国民は、今回の星島被告への判決が死刑ではなかったことに疑問、もしくは、憤りを感じていると思う。 しかし、それは、本当に国民が、あなた自身がこの事件と刑法を見比べ熟慮した結果だろうか? もちろん、人ひとり殺害した事は重大な罪である。 しかし、多くの人は、亡くなった被害者がバラバラにされて「トイレに流された」事に、被告の残忍性を観てとり、「彼は死刑に値する」と思っているのではないだろうか。

しかも、その「残酷だ」という意識は、『マスコミ報道』等の誘導が元で自らの中で増殖してしまった思いではないか? 警察の発表をそのまま鵜呑みにしているのではないか? どうだろう。 警察の初動捜査のミスで、被害者の遺体は一部しか見つかっていない。 死体損壊の模様については、その大部分が星島被告の証言によるもので、物的証拠による裏づけは完全では無いと聞く。


「死体損壊」・・・。 刑法190条に『死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する』とあるとおり。 例えば「器物破損」の最も重い刑三年以下の懲役又は三十万円以下の罰金若しくは科料)と量刑は変わらないのである。 つまり、人間の死体は器物、「物」なのだ。 法的には・・・。

ちなみに、私は猫を飼ってるから敢えて書くのだが、犬猫を故意に殺しても適用される刑法は「器物破損」なのである(動物愛護法では更に量刑が軽い)。 小さな命を奪ったにも係わらず、罰金や科料で済んでしまうこともあるのである。 人も小動物も、命の重さは同じであるはずなのに・・・。

話が逸れたが、今回の殺人の罪に、「最大でも懲役3年の量刑」の罪である死体損壊を併せたからといって、「死刑」にはできないというのが裁判所(一審)の判断である。 「被告人の量刑を決める」ための裁判としは、被害者に対する「過度な感情」を排除し、至極真っ当な量刑判決だろう。 日本は法治国家なのだから・・・。
(ただし、死体損壊の罪の量刑の重さが軽すぎるとは思う。)

被告人が被害者が一人の場合、これまでの判例では、殺人の前科があるか、強盗殺人などの金銭目的でない限り死刑判決とはならないと聞く。 ただ、裁判官が言う、星島被告に「矯正の可能性がいまだ残されている」とは私にはなかなか思い難いですが・・・。
断っておくが、私は死刑廃止論者ではない。


被害者の母の『「娘の恐怖と痛みを」と死刑望む(共同)』という親としての感情は理解できる。 私がこの裁判の裁判員であれば、たぶん、星島被告への刑には「死刑をもってあたるべき」と主張するだろう。 しかし、それは本当に「公正」な判断だろうか? マスコミに煽られて感情に流されてはいないか? 検察の「画像を使った激情型煽動」に踊らされてはいまいか? 自分が裁判員となったら、常に自問すべきだろう。

閑話休題

「裁判所は真実を求める所」と言う人がいる。 また、被害者側の家族親族は「裁判で真実を明らかにして欲しい」と望む。 確かに、裁判による「飽くなき真実の探求」は本来重要なことだ。 しかし、実際の裁判とは、真実はそっちのけで、原告(検察)と被告とが「責任の重さの割合(量刑)を争う」場なのだ。

原告側は、被告の責任はこんなに大きいと強調しその重さを主張する。 また、被告側は、少しでも責任を逃れよう、または、責任は無いと主張する。 両者の主張がぶつかり合う場である。 そして、お互いに相手の主張を崩そうと争い合う。 このような裁判で、真実が明らかになることは皆無に近い。 無いといってもいいくらいだろう。

まあ、極端ではあるが、裁判は「原告、被告のどちらの『偽装』がより真実らしく聞こえるか」を争ってる、と言っても過言ではあるまい。

posted by 少彦梛 at 23:59| Comment(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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